昭和42年11月4日 朝の御理解


 どんな場合でも私、思うのですね。私がおかげを頂く以外にない。私が助かる以外にはないということでございます。私が助かる以外にはない。私がおかげを頂く以外にはない。為にはどうしても無言実行ということをもうしますね。ある人は御道の信心は有言実行だと、言うた人がありますけれども、矢っ張り無言が一番いいようです。問題は私が助かりすればよい。私がおかげを受けさえすればいいことになるのです。私共は随分十七年間の間には様々に取りざたもされましたし、批判も受けて参りましたけれども、それに成る程はじめの間はまぁ誤解を受けておるとか、いえばすぐ分かるようなことは言いもすりゃ誤解を解くに為に話しもしてきた。ところがもうその言うた口のしたから次にはもう分からない問題が起きてくる。又言い訳しなければならない問題が起きておる。もう驚くばっかりでした。そこに御神意を悟らして頂いた事はもう言うことはいらん。もう話しちゃならん。もういいわけしちゃならん。問題は私がおかげ頂く以外にはない。そういう中にあって私が助かって行く以外にはないと言うことございました。もう黙って聞いておる、問題は私がおかげさえ頂いていけばいいのである。結局言わず語らずの中に分かっても頂きよるし、分からない人もあるけれども、それはいよいよもって、私が助かってさえいきゃ分かってもらえるんだと言うことがそれでいて私自身が助かっていきよる。その事を通して信心とは矢張り助からなきゃならん。
 昨日は福岡教会の秋の御大祭でございましたから、私も久しぶりでおかげを頂きました。壱岐の末永先生も親子でおかげを頂いておられました。お祭りを終わってこちらへ出てきとらました。で昨夜先生とお話さして頂いておる中に、矢張りその福岡の出社であり、壱岐の教会の息子さんがここへお参りして来る。弟さんはここで打ち込んで修行に打ち込んでおる。ま、親教会、親をないがしろにしておるといったような見方も矢っ張りあるだろうとこう思います。からと云うていちいちそれに反発は勿論ですけれども、いいわけをしなければならないような問題が次々と起きてくる。だから末永先生問題はあんたがおかげ頂く以外にはないですよ。助かる以外にはないですよ。そういう意味あいで建郎さんは大きいですよと云うてまぁ話した事でございます。誰がなんと云うてどういう風に助からなきゃならんのは、私だと。それには矢張り自分がここならば助かられると言うところに打ち込む以外にはないのである。自分が本当に信心を分からしてもらうのはここだと信じたところで、本気で信心を分からしてもらう以外にはないのである。人の口のはをとやこう気にしながら、そして一生うだつの上がらない事であってはつまらんじゃない。もういいわけはいらんですよ。問題はあなたがおかげ頂く以外にはないですよ。久富さんが側におりましたから、言っておりました。末永先生もういっぺんここへ修行、出直して来なさいちいうて、本当そうですね。問題は誰がなんと云うても、私がおかげ頂く以外にない。そんな話をしよりましたら、私こたつの間でございましたけれども、御心眼に頂くのが、本館と脇殿の間に大きな木が植っておりますですね。ヒマラヤ杉ですか、その根本にくちなしと八手が根本に植えてございますですね。あそこを頂くんですよ。
 私が今云うておる通りなのだ。神様の思いもそれであり、願いもそれだ。言うな、言うちゃつまらん。問題は自分自身の心の中にもう本当に自分が云うて、聞かせてですね、そのまぁして見せてなどと言うような事を言う人がありますけれども、そんなこつじゃないですね。金光様の場合は、云うて聞かせして見せてほめてやらねば誰もせぬぞえといったような、まぁ教歌風のその事に言う人がありますけれどもです、ほめてやってからでもさせるような事じゃつまらん。してみると言うことはあるけれどもですね、人にしてみせることはいらん。
ある教会の先生が見えてから、私に言われた。あなたが親教会にこうやってつくしなさい、それが信者に対するところの手本になる。まるきり信者に手本の為に私は親教会なら親教会につくすごたる。そうしなければおられないからそうするのだ。ははぁよその先生達はそげなこつば思とるけんおかげ頂かんばいち、私は思いました。信者に見せるために実行してみせよる。お供えでんこげんせんならんもんち云うてから実行してみせよる。お供えでんこげんせんならんもんち云うてから私は親教会にこげんしよるよと云うて、自分方に又させようと思うてから、そんなことしよる、それじゃ条件があるからおかげ頂けるはずがない。私はこの場合なんかそうしなければおられない。又そうすることが当たり前だとしてさして頂いとるだけのこと。見ろうがしようがそんなことは問題じゃない。問題は私が本当にくちなしというのは無言と言うことであろうとこう思う。八手というのはおかげの受け、大きな手をいわば受け物だと、おかげの受け物だということ。問題は私自身がおかげを受けていけばもう無言の中に、言わん中に成る程と合点させる事が出来る。ひと見せじゃない。ひとがおかげ頂くのではない。教祖の神様はこの方は人が助かることさえ出来れば結構であるとこう仰るけれど、人が助かることさえ出来ればということは、私が助かる事さえ出来ればと言うことなんだ。言い換えると、何故って人が助かるためには、自分が助かっとらなけば助けられないのだ。そこに、人が溺れておっても、自分が泳ぎきらずして助けることは出来んもん。自分自身が泳ぎを先ず体得する以外にはない。そこに助けを求めてくる人達を助ける。そこんところを自分がわが身がおかげを受けたことを人へ実意丁寧に話していくのが、神への御礼ぞと。それが神になるのぞとまで仰る。だからここんところはです、もう有言、成る程言葉になって現れてくるけれども、こりゃ自分のおかげを受けたことをです、実意丁寧に神へ伝えていくのである。言い訳じゃないでしょうが、宣伝でもないでしょうが、人を助けてやろうと思うてからじゃ、ただ自分のおかげを頂いた事をやむにやまれん。自分が助かっていきよるそのことをそれを矢張り止むにやまれん。それが言葉になってでてくる。そこが実意丁寧に人に伝えていくことである。それがいよいよ自分が助かっていくことに又つながっていくのである。それが神になるのぞとこう。自分が神になるために人へ伝えていくなんて、そりゃ逆さまなんだ。そうでしょうが。自分が助かっておるのがです、自分の助かっておるその喜びというか、一切がおかげというものをです、実意丁寧に人へ伝えていくと、そう伝えなければおられないのである。自分が助からにゃんけん、そこをさせにゃんけん自分もこうしようというのとは、全然形は同じであってもちがうでしょうが、そうしなければおられないのである。
 ミカンの木に柿がなるようなことはありません。柿にミカンを求めてもそれは、ダメなことです。ですから柿なら柿、ミカンならミカン、ただしそれを改良に改良を加えていくことは出来ます。例えば( )の実のような物、あれはミカンの種類なわけですから、それにミカンをつぐことは出来る。切り替えていくことは出来る。柿でもそうです。どんなに渋柿でありましても、甘柿につぎ変えていくことは出来る。それは同じ性質の物を持っているから、そこんところを教祖は信心は日々の改まりが大事だ。人の真似じゃない、自分自身の物をです、それをいよいよ良い物へ良い物へと接ぎ変えていくことは出来る。だから自分がおかげを頂く以外にはない。という事はどういうことかというとですね、私が助かる以外にはないと言うことはですね、渋柿から甘柿にです、( )の実からミカンの実が生るような切り替え、切り替えをしていく事なんだ。もうそれは何ともいえん。あんな渋い柿がこの様な甘い柿になっていく。その喜びがとてもじっとしてはおられないのであり、御用に表れ、お導きに表れ、そうしなければおられんのである。こすりゃたすかるけんといったようなものじゃない。
 ですからその間の事は結局は無なのである。助かるまではなるまでは、渋柿から甘柿になるまでは、まぁだ渋柿の状態の時にです、甘柿の話したところで誰がついてくるもんか。誰が分かるもんか、問題は私がおかげ頂く以外にはない。私がおかげ頂く以外にはないから、私がおかげ頂く以外にはないといっとるだけじゃつまらん。本当に私がおかげ頂く以外にはないということは、私がいよいよ切り替え切り替えしていくことなんだ。継ぎ足し継ぎ足ししていくことなんだ。良い実が実るために改良に改良を加えていくことなんだ。私はそう思うですね。
 第一ですね、もう云うて聞かせるなんて言うような事はもう一番愚の骨頂のようにです、私に、ところがその有言実行などと言うような事をですね、その本気で思とる人があるものですから、もう自分の中には、ない物をです、自分がおかげ頂ききっとらんのにです、いかにもそのそれが本当だ。自分が本当だと言うことを実証もせずに、人に伝えておるものですから、おかげ頂かんのです、人もじゃない。これが自分なら自分の子供においても同じですよ。自分がおかげ頂ききっとらんとに、子供へああせにゃ、こうせにゃそんなこつでいくもんかというても、子供がついて来るおかげ、頂くはずがないですよね。だから子供なら子供の上に、眼に余るような事があっても、見ても聞いてもです、私が助かっていく、子供じゃない。私が改まっていく以外にはない、私が助かっていく以外にはない。そこんところをですね、私が頂いていくことが御道の信心だと思うんです。成る程この方の道はその話を聞いて助かる道と言うことは、同時に話をしていくこと、話を聞くだけではなく、話を伝えていくことが、だということにもなるのですけれども、その話と言うのは、話をすれば自分が助かるからと言ったようなものではなくてです、自分の助かっておるその生き方というものをです、人に伝えていかなければおられないでしょうが、私もまぁだ渋柿ばってんが、甘柿になろうじゃないかと言うような話なら出来ますかもしれません。いかにも自分が甘柿になっとるようにな話したってついてくるはずがないですよね。それはその場で言うとか、分かってもらうということは、それはその場は通じるのですから、それが本当であればはぁそげなこつじゃったかと云うて、分かり合うことが出来るですけれども、それはほんのそんときだけ。如何に神様の御都合ということとは、どう言うことかと言うと、成る程これは私が助かる為に、その問題があるんだと言うことを知るが一番間違いのない事なんだ。ですからその事を通して私が本当に助かったあかつきにです、それは又言わんでもすむ、分かってもられることになってくる。そして私共は今は椛目なら椛目、合楽なら合楽にこうして皆さんおかげ頂いて、御神意を頂いておると言うことはです、まぁいうならば、柿の木なら柿の木、私が柿の木であるならば皆さんも柿の木の種類に違いはない。私が柿の木なのに、ミカンの木の人が集まってきておるとは思われない。矢っ張り同類項が集まってきておるだけ。だからここでは私が矢っ張りどうしても、おかげを受けなければならない。私が一切助からなければならない。助かっておると言うことはあんなものだと。おかげを受けると言うことはああ言うものだとおかげを私が矢っ張り頂いていかなければならない。そこに例えば私は此のおかげを頂いていくために、その都度都度に例えば難儀なら難儀というたんびに、問題があればあるたんびんにいわば、椛目から合楽へと言うその過程というものは、必ず問題があるたんびんに、おかげを頂いて来たと言う事実がある。問題があるたんびんに、私はいわば接ぎ変え、切り替え、改良に改良を加えてきたということがいえる。そして限りなく私が助かっていくことであろう。そして限りなく私が助かっていくことであろう。そして限りなくおかげが大きくなっていくであろう。皆さんもそこんところをです、おかげを頂いて参りまして、本当にいわんですむ私にならして頂かなければなりません。出来もせんことをいわゆる多弁になってはなりません。言うなら、おしゃべりになっちゃならない。金光様の御信心はただし、自分のおかげを受けておること、自分が本当に自分が改まって来て、つぎに良いものが実ったその話ならです、もうこれはもう限りがない事。自分のおかげを頂いて来たという事はです、これはただし止むにやまれぬもの、喉からこうしてでてくるようなもの。だから本当にこの人が聞こうという気になったら二時間でも三時間でもおかげを受けた話ならばでてくる。そういう話はです、実意丁寧に人へ伝えていけれるようなおかげを先ず私が頂かなければならないと言うことなんですね。                           どうぞ